子どもたちを犯罪から守りたい――。これは、いつの時代も子を持つ親の願いであり、社会の願いです。科学警察研究所で心理学や社会学など行動科学の観点から、犯罪防止、捜査支援などに取り組む原田豊さんは、近年、科学的・客観的なアプローチによって、子どもの犯罪被害を防ぐための仕組み作りに力を注いでいます。そして、その中で実はGPS(※1)技術が活用されています。GPSを用いた仕組みやその可能性、さらにGPSの精度を高める準天頂衛星への期待などを聞いてみました。
※1 GPS:GPSとは、Global Positioning System(グローバル・ポジショニング・システム)の略で「全世界的測位システム」や「全地球測位システム」と訳されます。
詳しくは「準天頂衛星システムとGPS」を参照。
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―― 準天頂衛星初号機の愛称「みちびき」にかけて、原田さんを今の仕事へとみちびいたものについて、教えてください。
原田 豊さん(以降、原田):自分が高校生だったとき、自宅の近所にある小さな古墳群の調査をしたことがあります。地図を買ってきて、古墳のある場所にシールを貼っていったのですが、それが不規則に蛇行するような何とも不思議な配置になりましてね。でも、そのころ刊行されたばかりの「土地条件図」という一種の地質図を見て謎が解けました。蛇行する配置と重なるように昔は川が流れていて、その両岸の自然堤防の上に古墳があることがわかったのです。それが近代になって洪水を防ぐ工事によって川は直線になり、昔の地形の名残が古墳の配置に受け継がれたわけです。このように、地図上に情報を重ねあわせる、今風の言葉でいえばオーバーレイにより、思いがけないものが見えてくることに非常に興味を持ったことを今でも覚えています。
―― その原体験があって今があるということでしょうか。
原田:今、私が犯罪の研究に活用しているツールがGIS(Geographic Information Systems、地理情報システム)というものです。GISとは、コンピュータを使って地理的な情報を表示したり、分析したりすることができるソフトウェアのこと。簡単に言えば、事件などをマッピングして分析することが今の仕事であり、古墳の件はまさにそのルーツだったといえます。
―― 原田さんは現在、科学警察研究所の犯罪行動科学部の部長を務められています。具体的にどのような活動をしているのか、教えていただけますか?
原田:科学警察研究所は、警察庁附属の犯罪科学に関する国立研究機関です。所内には法科学第1部~4部、犯罪行動科学部、交通科学部の6つの部門があり、私は犯罪行動科学部の部長を務めています(詳細は科学警察研究所ホームページを参照)。犯罪行動科学部は心理学、社会学などの行動科学の視点をベースに、少年非行の要因や非行防止対策に関する研究、犯罪防止対策の立案や評価に関する研究、犯罪の捜査や犯罪者の心理に関する研究に取り組んでいます。
―― 捜査や犯罪防止への科学的なアプローチは、近年関心が高まっている分野ですね。科学警察研究所は人気ドラマの舞台にもなりました(笑)。それらの研究の中で、GISやGPSなどの最先端の技術を取り入れているわけですね。
原田:ただし、日本で犯罪の捜査や防止にGISを本格的に活用し始めたのは、それほど昔のことではありません。きっかけは平成15年ころの警察の方針転換であり、それが大きなターニングポイントだったと思います。
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―― 興味深い話ですね。どのようなターニングポイントだったのですか?
原田:平成14年は、全国で発生した犯罪の件数が約285万件と、戦後最悪を記録した年でした。事件があまりにも増えたために、警察の人手も足りなくなり、捜査が追いつかない状況でした。そのため、何とか犯罪の総量を抑制できないかと、警察はその手立てを考えるようになります。しかし、警察の力だけでは限界があります。そこで、一般市民も含めた多くの人たちの協力を得るために、身近な犯罪情報を公開することにしたのです。その一例が、警視庁の「犯罪発生マップ」です。これは、都内で起きた犯罪の発生地点の分布を地図の形であらわし、それを警視庁のサイト上で公開したものです。これによって、市民や自主防犯団体の方々に関心を持っていただき、自主的な防犯の取り組みを促すようにしました。その犯罪発生マップのGISデータを作ったのが、私たち犯罪行動科学部でした。
―― 犯罪情報は外に出さないという従来の方針から大きく舵を切ったわけですね。
原田:そうです。これは当時の警察幹部の思い切った決断だったと思います。それ以前は、「犯罪が多いという情報を出したために、その地区の土地の値段が下がったらどうするのか」といった議論もありました。
―― 実際はどうだったのでしょうか。
原田:犯罪発生マップでは犯罪件数が多いところほど濃い赤色に染まるように設計されています。平成15年に公表した14年のデータでは、世田谷区や杉並区に赤い色のところが多くなるといった意外な結果となり、地元の方々にはショッキングだったそうです。しかし、15年、16年のデータでは、どちらの区でも、赤色が消えたり、薄まったりするなど、大きな変化が見られました。つまり、パターンは1年、2年で大きく変わるので、土地の価格に深刻な影響が出るようなことは、結果的になかったと思います。
―― 犯罪件数が減った主な要因は何でしょうか?
原田:マップの公表と相前後して、世田谷区では24時間自主パトロールがスタートし、杉並区では警察署と区役所の人事交流が始まり、区役所内に治安対策本部が設置されました。こうした防犯意識の高まりとそれに基づく活動が要因だと思います。それらがマップをきっかけとして始まったのかどうかは定かではありませんが、少なくとも市民が犯罪を、どこか遠くで起こっているものではなく、いわば「ご近所の問題」として捉えるようになったことは確かです。同時に、時間と空間をキーにして地理的な情報をオーバーレイ(重ね合わせ)することにより新しい意味を導き出すGISという技術が、犯罪分析に有効であることが認識され、それ以降重視されるようになりました。いずれにせよ、これがターニングポイントとなって世の中で安全・安心のために地理空間情報技術を活用するという流れが生まれ、犯罪発生マップはそのシンボリックな存在になっています。
―― 現状を科学的・客観的に知る大切さを警察も市民も認識したわけですね。
原田:人間の体にたとえて言えば、レントゲン写真のようなものです。なんか体がだるいとか元気がないとか言っているだけでなく、現状、体のどこに影があるのかをまず見えるようにすることが大切。それを医師が診断し原因を見定めて対策を打つ。同じように都市のレントゲン写真として作ったのが犯罪発生マップであり、それがあってはじめて、的を絞った効果的なパトロールなどの対策につなげることができるのではないでしょうか。
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―― 犯罪発生マップは今や全国各地の警察が独自に作成し、公表しています。犯罪発生件数も平成21年には年間約170万件にまで減少しました。その実績もあって、現在原田さんが中心となって進めている、GISを用いた子どもを犯罪から守るための実践的な研究につながってくるわけですね。
原田:正式には「子どもの被害の測定と防犯活動の実証的基盤の確立」という研究開発プロジェクトです。科学技術振興機構・社会技術研究開発センター(RISTEX)が平成19年度から設定した研究開発領域「犯罪からの子どもの安全」の採択課題として4年計画で進められています。この研究で、われわれは、これまで実態がわかりにくかった子どもの犯罪被害やその危険などの実情を、GISなどを使って「見える化」し、それをもとに、地域の実情に応じた効果的で持続できる対策が取れるようにすることをめざしています。
―― その研究のなかでGPSを使った調査をしていると聞いています。それはどのようなものですか?
原田:子どもの安全を守る取り組みを効果的に進めるためには、子どもたちの日常行動を知ることが大切です。そのための調査で、「GPSロガー」という装置を使っています。GPSロガーとは、人工衛星からの電波で位置を測定し、その記録(ログ)を自動的に保存していく、軽くて小さな受信機のことです。これを子どもたちに持ってもらい、あとでデータをパソコンのマップ上に取り込んで、日常行動の分析をしているのです。
―― 携帯電話でもログは取れると思いますが、なぜGPSロガーを採用しているのですか?
原田:一番の理由は、ランニングコストがかからないからです。携帯電話を持つとなると、月々の支払いが発生しますよね。でも、GPSロガーなら初期投資(8000円くらい)の後は、万人が使える無料のデータであるGPSの信号を受信するだけでログが取得できるので、費用的なハードルが非常に低い。もし将来的にGISやGPSを基盤として地域の防犯活動に採用するとした場合、それを担うのは資金的に余裕がないPTAやNPO法人となるでしょうから、ランニングコストがかからないことは、重要なポイントなのです。
―― 実際にGPSロガーは正確に移動のログを記録できますか?
原田:私は自転車が趣味で休日にはよくツーリングを楽しんでいますが、ハンドルなどにGPSロガーを取りつけて走れば、けっこう正確に移動の経路を記録しマップ上にもキレイに表示することができます。プロジェクトでも子どもが携帯するGPSロガーにより、行動の履歴をかなりの程度まで把握できるようになっています。これが初期投資を除けば、お金をかけずに実現している。衛星測位の技術のすごさ、有難さを身にしみて感じるし、子どもの犯罪被害の防止に非常に大きなポテンシャルを持っているものだと思います。
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―― GPSロガーの現状の問題や課題についてはいかがですか?
原田:現在のGPSロガーは、郊外などの開けた場所では非常に有効に機能するのですが、都市部の繁華街などでは正確なログを取ることができません。2009年12月、池袋で冬の防犯パトロールの際にGPSロガーを携帯して歩いてみましたが、どこを移動したのか全くわからないくらいログのデータが乱れていました。理由は色々推測できますが、いずれにせよ、犯罪の多い都市部や繁華街で使えないのでは、一番かゆいところに手が届かないわけで、これが何より重大な問題です。
―― 準天頂衛星システムは初号機「みちびき」に続き、2号機、3号機が打ち上げられ3機体制を確立することで、日本列島の上空を24時間365日カバーして従来のGPSを補完・補強し、ビル街などでの測位情報の精度を向上させることが期待できます。
原田:私たちは、RISTEXの研究開発プロジェクトで「防犯活動の基盤の確立」を主要な目的に掲げています。要するに、研究報告書を提出するレベルにとどまらず、社会実装が可能な実践的な基盤を確立することができて、はじめてプロジェクトは成功したといえます。その基盤作りの鍵を握る技術の一つがGIS、GPSです。つまり、測位情報の精度が確保できなければ、都市部では使いものにならず、結局は絵に描いた餅となってしまいます。言ってみれば都市部での衛星測位の精度は必要不可欠な要素なのです。ですから、準天頂衛星システムは是が非でも完成させていただき、科学的に子どもの安全、地域の安全を守る仕組みづくりに役立てたいと思っています。
―― 地域防犯のための仕組みづくりではどのようなことが考えられますか?
原田:例えば、地域の防犯団体による自主的なパトロールの際にGPSロガーを携帯し、そのログ情報をサーバーなどに登録して関係者の間で共有することが考えられます。一つの地域に複数の防犯団体があるケースも多いので、どの団体がいつどこを通っているのかという記録が共有できれば、ある時間帯にこの地区は稠密だが、この地区は手薄という全体像が浮かび上がってきます。その実態を受けて団体間で話し合ったり、プロの助言に基づいて対策を立てて実行したりするという展開も見えてくるわけです。部署、団体、組織を超えて現状を共有することにはこうした大きな意味があります。
―― なるほど、GPSロガーを単に持って歩けばいいだけですから、手軽で簡単ですね。
原田:そうです。お母さんでもおじいちゃん、おばあちゃんでも地域の防犯活動に参加しているすべての方々が簡単に利用できます。将来的にはマニュアルも整備し「草の根GIS」として普及させたいですね。そうすることで、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんも含めた地域のパワーを結集させたいと考えています。
―― こうした犯罪科学の分野は欧米では随分進んでいるようですね。
原田:たとえば、アメリカのニューヨーク市警では1990年代に「コムスタット」(※2)というしくみを作り、部局を超えて地域の直近の犯罪情勢を共有し、的を絞った対策を講じることで、治安を大きく回復させました。また、警察のパトロールの効果検証など犯罪予防の科学的な研究は、1970年代にすでに始まっています。それに対して、日本では近年着手し始めたばかりです。その差は30年以上といえるかもしれません。
※2 コムスタット:CompStat=Computer Statisticsの略。犯罪の発生件数を期間別・地域別に詳しく集計し、GISなども活用して、犯罪多発地区や犯罪情勢の推移などの掌握と、的を絞った犯罪対策に活用するしくみ。日本でも一部の県警などで導入が試みられている。
―― 今から少しでも差を詰めていく必要がありますね。
原田:GISやGPSといった新しい分野では、日本が先駆的な活動ができる可能性があります。そのためにも、準天頂衛星システムの完成が必要です。今の研究開発プロジェクトを社会実装にまで持っていけるか、あるいは私たちが今までやってきたことが世の中的に意味あるものになるかどうかは、2号機、3号機が打ち上がり、準天頂衛星システムが本格運用できるかどうかにかかっています。さらに、建物内に入ったときにも測位情報が取得できるような屋外・屋内のシームレスな受信技術の確立も必要となってくるでしょう(屋内測位)。これらが子どもの生命や地域の生活を守るための社会的なインフラとして整備されることを、心から望んでいます。
―― 準天頂衛星システムやみちびきが、子どもの犯罪被害、地域の犯罪被害の予防という領域にも活用できることは、新しい視点です。今後の科学警察研究所の取り組みに、私たちも期待しています。本日は有難うございました。
原田豊さんプロフィール・略歴
科学警察研究所犯罪行動科学部長。学術博士(犯罪学)。専門は犯罪社会学。
科学警察研究所犯罪予防研究室長を経て2004年から現職。2005年10月からは日本犯罪社会学会常任理事を務める。犯罪・非行の経歴の縦断的分析、GISを用いた犯罪の地理的分析など、先進的な手法による実証的犯罪研究に取り組むとともに、警視庁との共同による『犯罪発生マップ』の作成と公開などを通して、研究成果の市民への還元に努めている。